人間には、本来の性稟の中で、生まれるときから持って出てきた高貴な贈り物(エキス)があります。それが愛です。  ところで、人間は堕落によって、愛の本体を失ってしまいました。 愛は、人間が世の中に生まれるとき、神様から受けた、神様の最も核心的な重要部分です。人間は、それをそのまま相続すべきものでした。

瞑想をして、天の父母様である
神様の真の愛を相続した私になりましょう。

霊界の実相と地上生活より
李相軒先生が見た霊界の実相 です。
神様の愛の形態
愛がある人と愛がない人
 愛とは、人間が生まれるとき、神様から受けた一つの貴い要素です。しかし、これが人間をして、世の中に生まれながらにして二人の主人に仕える要素として作用しているのは残念な事実です。これが、我々人間において、不幸の始まりです。
 愛とは、肉体を通じた夫婦の愛だけをもって言うのではありません。人間には、本来の性稟の中で、生まれるときから持って出てきた高貴な贈り物(エキス)があります。それが愛です。
 ところで、人間は堕落によって、愛の本体を失ってしまいました。その結果、与えてくださった愛の上に、新しくペイントをして新しく造った人造の愛に変わってしまいました。愛とは、神様の性稟の中で最も重要な部分に位置しています。このような神様の愛を、我々人間は、分析することもできず、掘り下げてみることもできません。今、そのような神様の根本的な愛を、この国、霊界に来て、見たとおりに記録しようと思います。
 
神様の愛
 神様の愛は、描くことも、触ることも、表現することもできません。そして神様の愛は、我々の目で確認することもできません。神様の愛は、我々人間としては、理解しにくいからです。また神様の愛は、我々人間の頭脳で分析できないのです。
 神様の愛は、我々に無限に与えても、減らず、依然として全く同じです。神様の愛は、まるで蛇口をひねっておけば、水があふれ出てくるように、休まず続けてわき出しているのです。神様の愛は、我々人間が受けて、また受けても、嫌がる者はなく、受けて、また受けても腹いっぱいになった者はなく、もっと空腹な者のようになり、謙遜なります。神様の愛は、かさや重さで測定することができませんが、我々人間にたいして無限の快適な姿で変化しています。……
…また、呼ばれる音声の変化によって、その美しい光彩も変わるが、ただ全身が溶け出すような恍惚感です。突然、瞬間的に、自分一人で立っています。明らかに神様が見えないからです。このように恍惚な光が、どのように瞬間、瞬間、人間に訪ねてこられるか不思議なばかりです。光として現れる神様の愛は、刻一刻異なっていました。大きな火、小さな火、丸々とした火、まるで地上で見た花火の光景のように輝く、燦爛とした光がいろいろな光彩になって、人間に愛の光として現れますが、その光を発する姿によって、感じられてくる感性も異なっていました。私が体験したこと以外に、他の者たちに現れる神様の姿を見ましたが、依然として神様は愛の本体であられました。

神様の姿は火であり光である
 光が愛の姿であると、何で判断するのでしょうか。神様の姿は、火であり光であるために、神様の光を見れば、人間の心の中に、愛の要素がそのまま作用します。まるで、電気のスイッチを押せば明かりがつくように、神様の光を見れば、愛が作動し、人間の心の中は、愛の塊りで和するようになるのです。

愛は神様の最も大きな贈り物
 愛は、人間が世の中に生まれるとき、神様から受けた、神様の最も核心的な重要部分です。人間は、それをそのまま相続すべきものでした。しかし、それが誤ったことで、神様との関係が切れたので、これを回復するための方法は、人間が神様に似なければなりません。神様に似るための最も最善の方法は、神様の子女として、愛の本然の姿に帰らなければならないのです。

 愛、愛、愛、それはすべてに勝ち、すべてを溶かし、すべてをなすことができる根本の力です。愛だけが、人間が神様に受けた最も大きな贈り物であり、子供であるという証です。愛! 失った本然の愛を探すため、苦労して努力しなければならないのです。

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「天の父母様である神様の真の愛を相続しょう!」
我々は、神の子です。
神様は、真の愛の本体です。
だから、新しい自分は、真の愛の実体になるのです。
神様の真の愛を相続することが全ての出発点です。
神様に感謝します。

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