文鮮明先生のみ言集 感謝の生活


文鮮明先生のみ言集

感謝の生活

一九七〇年十月二十五日
韓国前本部教会 『文鮮明先生み言選集第三十五巻』

 この世には多くの人が生きています。人は誰でも、現時点よりは良いあすを希望しつつ、より良い一日を迎えることを誓って、より価値ある内容を求めています。しかし、その価値ある内容を見いだすことができず、その内容を充足できなければ、落胆し絶望するという事実を現実の生活の中で見受けることがあります。

◆人が本来あるべき所

 それでは、人が本来行くべき所とはどこで、とどまるべき所とはどこかというと、今日私たちの願う未来の世界であるということなのです。あすの希望を中心とした生活舞台、あるいはそのような心情の基盤がつくられるところだと考えるのが、現在の人の考え方です。

 本来神様のみ旨を中心として見ると、堕落前の人類の先祖が置かれていた立場は、不幸、嘆息、怨恨、願望といった感情をもって生きる立場ではありませんでした。それは、父母の懐に抱かれて養育される立場であり、保護を受ける立場でした。

 そこにもし不幸の要因があるならば、神様は人間が不幸になる前に、その不幸に責任をもってくださるのであり、あるいはそこに落胆するような要因があるならば、神様がその内容をあらかじめ防いでくださるのです。そういう立場が本然の息子、娘の立場だということを考えると、本来アダムも不幸ではない立場にあり、エバも不幸ではない立場にあったにもかかわらず堕落したということができます。彼らの環境は不幸ではなかったのに、なぜ堕落したのかということが問題となるのです。

 今日の私たち人間を考えると、二人いれば二人の考え方が違い、十人いればその十人の考え方がそれぞれ違います。それゆえ、すべての問題において、分裂、背反、苦衷といったものが起こるのです。

 しかし二人、あるいは十人が一つの目的のために全く同じ立場で進めば、闘争もなく、分裂もあり得ないのです。

 本来、神様はアダムとエバを中心としていらっしゃるべきであり、また、アダムとエバは神様のための立場に立たなければなりません。しかし、アダムとエバが完成しなければ、神様のために存在するという立場に立てないので、アダムとエバは神様のために存在できるようになるまでの成長過程を経なければならないのです。

 この成長過程を経るにおいて、アダムとエバは現時点、すなわち現在を中心とする立場にありましたが、神様はアダムとエバの現在の立場を越えて、未来の立場まで、全体を愛する立場にあったのです。現実の立場は制限された立場であり、自分自身のための立場です。アダムとエバは相対的関係を中心として、神様が指向し願われる目的が何であるかを考えることもなく、自分だけを中心として現実的な内容を観察する立場にあったのです。

 しかし神様は、アダムとエバのように自分自身だけを中心として考える立場からではなく、彼らが生涯を終えたのちの歴史的未来を念頭において、アダムとエバを愛したのです。アダムとエバは、神様が直接現れて語りかけるという事実だけで満足していたかもしれませんが、神様はそれよりも高く、より大きい未来のことを中心として、現実において愛してこられたのです。このような事実を、アダムとエバは知らなかったのです。

 もし、アダムとエバが、神様のその愛がどれほど大きいかということを感じていたなら、彼らは堕落しようとしても堕落することができなかったはずです。しかし、彼らは神様の愛がどれほど大きいかを知らずに、現実の環境でぶつかる事情と、彼らの前にある問題をすべて解決できると感じる立場に立ったがゆえに、そこから問題が発生したということを皆さんは知らなければなりません。

◆人間が失望し絶望するようになった起源

 今日、この地に生きている人間が、自分の置かれている生活環境の中で落胆し、失望するというような、堕落した人間の悲惨な実情を多く見受けます。しかし、このような試練と苦痛が、今日の試練と苦痛として終わるのではなく、未来の基盤を開拓し、準備するために、なくてはならない重要な要素であることが分かれば、現実の生活で失望することはなく、また絶望したり自暴自棄になったりすることもないのです。

 このような環境を経ることにより、未来の自らの願いが強固なものとなり、あすの生命の価値を確固としたものとする現実の価値が、その生活圏内に宿っているということを感じる人は、どんなに困難な環境にあっても、自分のすべてを失望の淵に追いやることはないという事実を推し量ることができます。

 神様は、全体を中心としてアダムとエバを保護し、より永遠の価値を中心としてアダムとエバに接しました。このような膨大な価値ある深い内容を中心としてアダムとエバを立てたにもかかわらず、アダムとエバは、その日その日の立場で考え、感じたがゆえに問題が起きたのです。

 このような事実から察して、今日堕落した先祖の子孫として生まれた私たち人間が、失望し、絶望するといった本性の起源はどこにあるのかといえば、自分を中心にして考えることから始まったということができます。ここから、すべての問題が起こるのです。

 自分が置かれている環境が、自分の願うものとは反対の現象として現れるため、このような環境をかき分けていくために、すべての責任を負って苦闘し、闘争してはいくけれども、自分自らそれに耐えられなくなると失望し、絶望するのです。

◆宗教が行く道

 このような堕落した現実の環境においては、幸福の与件を得ようとしても得られないのは当然の理致です。それゆえ、どんなに立派で偉大な人であっても、その一生の過程を分析すると、幸福や価値的な内容を中心として生活してはいないのです。こういう観点から、真の意味での人生観をもって、感謝して生きている人がどれほどいるかという問題を考えると、そのような人は極めて少ないという事実がよく分かります。

 それはなぜかというと、未来に対する確信をもっていないためです。ですから、あすに対する希望を中心として、今日の生活において、生命力を刺激し得る原動力を補給できないのです。それゆえ堕落した今日の世界の人間は、あすの希望の世界を待たずにはいられないという立場にあることを、きちんと知らなければなりません。

 なぜならば、神様は未来を中心として人間のために成そうとされた内容があったにもかかわらず、人間がそれを受ける立場にまで到達できなかったためです。したがって私たち人間には、その立場を必ず取り戻すべき運命の道が残っているのです。堕落した世界に生きている人間が、このような運命の道を求めていくには、現実生活で苦痛と闘争の過程を経なければなりません。

 そのためには、平坦な生活をつづっていくのではなく、新しい革命を起こしていかなければならないのです。宗教の生活のすべては、革命です。新しく開いていく開拓者の路程をたどらなければ、人間が築くべき希望の世界に到達できないのです。原理のみ言でいうならば、蕩減路程を経て復帰していかなければならないということです。

 蕩減復帰路程とは純粋に、ある公式や法度に従っていく道ではありません。開拓と闘争の過程を経なくてはならないのです。その開拓とは、個人の生に関する問題の解決に限ったことではありません。それは世界的な開拓です。世界的な問題を解決するための開拓なのです。また、その闘争も個人的な闘争ではなく、世界的な闘争なのです。このような事実を、人間は知らずにいるのです。

 今日、私たち人間の生というものは、世界的な戦争の過程に立っているのであり、世界的な開拓の路程に立っているのであり、世界的な新しい革命の隊列に立っているのです。こういう事実を、私たち人間は忘れているのです。

 人類始祖が自分を中心としてあすの希望を忘れ去った立場、すなわち自分を肯定し、あすを否定するという立場で堕落したがゆえに、私たちはきょうの自分を否定し、あすを肯定する立場に立たなければならないのです。未来を肯定し、今日を否定することのできる革命の旗手とならなければ、価値のない人生となり、人生のすべての面で悲哀の仮面を脱ぐことができないのです。これは当然の理致です。

 人間が堕落しなかったのならばともかく、堕落したからには、現実を肯定し、未来を否定した人間始祖の過ちを繰り返していては、堕落圏を抜け出すことはできないのです。それゆえ私たちは、現実を否定し、未来を肯定する立場に立たなければなりません。すなわち、人類の先祖が現実を肯定し、未来を否定することにより堕落したので、現実を否定して未来を肯定するという新しい内容を私たち各自がもっていなければ、人生の正しい道を探し求めていくことはできないのです。

 すると、私たちが、現実をどれだけ否定できるかということが問題となります。その否定の限界点とはどこでしょうか。今日の宗教や堕落世界の圏内での、私たちが求める新しい未来の条件を中心とした否定かというと、その圏内での否定では、新しい未来の世界を求めていくことはできないのです。それゆえ、その圏外まで否定しなければなりません。そうしなければ、圏内の否定圏を勝利の結果としてもってくることができないという事実を皆さんは知らなければなりません。

 では、今日私たちが願う理想とはどのようなものでしょうか。現実を肯定する生活ではありません。信仰生活というのは、あくまでも現実を否定する生活です。現実を否定すると同時に、未来の肯定を強固なものとするのです。

 今日の宗教人が、現実を肯定して未来を否定する立場と、現実を否定して未来を肯定する立場の二つの立場のうち、どちらがより強くなければならないかという問題を考えると、現実を否定して未来を肯定する立場が何よりも強くなければならないということができます。そのような人だけが、未来の愛を見いだすことができるのです。自分を中心とした生活圏内における愛を中心として自分自身を求めたのでは、アダムとエバの犯した嘆かわしい堕落による苦難から抜け出すことはできないのです。これは当然の理致です。

 それゆえ宗教人は、今まで苦難と試練の道を休むことなく行っているのです。その目的は何でしょうか。現実を肯定し、未来を否定した先祖たちの過ちを再び繰り返すのではなく、現実を否定し未来を肯定することです。それが、宗教の行く道だということを知らなければなりません。

◆未来に向けた新しい価値観確立の必要性

 今日私たちは、現在と未来の間で、一日の生活を中心として心と体がひっくり返ると同時に、一日一日がひっくり返るということを知らなければなりません。皆さんの心と体がひっくり返ることにより、きょうとあすが決定されるのです。

 したがって私たちは、一日一日を過ごしていくにおいて、きょうの試練をあすまで持ち込んではならないのです。あすの新しい肯定を追求し、これをあすの新しい肯定に連結するための基盤をきょうももたなければならないということです。そうしなければ、あすという日が、私にとっての幸福の根拠地として現れることができないのです。このような境界線で生命力を維持していく道こそ、信仰者の行くべき道であるということを皆さんは知らなければなりません。

 片手は神様にすがり、片手では世の中にすがっていくのではなく、世の中を否定して、天を肯定していくのが信仰の道です。それでは、未来を肯定して現実を否定することのできる内容があるかというと、今まではありませんでした。心は価値的な方向を追求してきましたが、その追求する方向において、主体的な対象を求めようにも求められなかったのが、今までの信仰生活だったのです。

 それゆえ、ここでは自らあすの約束を確かなものとするための新しい因縁が必要であり、未来に向かう新しい価値観の確立が必要なのです。その確立した価値の内容は、現実における何よりも強く徹底した主体的な内容でなければなりません。そうでなければ、未来の世界を中心として、現実的な観念と現実的な生活舞台を否定し、克服することができないのです。

 個人の信仰路程を見ると、最初のうちは信仰生活をとても上手にします。しかし、日がたてばたつほど、その環境の範囲が広がれば広がるほど、より一層立体性を備えなければならないにもかかわらず、そうできないのです。始めは力強く出発しても、しまいには弱くなってしまうのです。これは未来観の確立がきちんとなされなかったがゆえだということを、皆さんは知らなければなりません。

◆最後の主義

 私たち個人は、百年以内に一時代を生きて、死ぬのです。けれども歴史は、永遠に続きます。歴史を連結させるために個人的な社会があるのであり、家庭的な社会、氏族的な社会、民族的な社会、国家的な社会があるのです。

 この地上には、風土が違い、伝統が違い、歴史的背景が違う様々な種類の民族が住んでいます。これらを何によって一つに結び合わせるのでしょうか。権勢や主権ではできません。世の中のどんな物質をもってしてもできません。これを結び合わせることができるたった一つの方法があるとすれば、それは何でしょうか。

 どのような人であっても、どこで暮らしたいかと尋ねれば、「故郷だ」と言うことでしょう。いくら長い間故郷を離れ、異郷で暮らした老人であったとしても、自らの故郷の山河を懐かしがるものです。自分の父母が死んで数十年がたち、父母を忘れてしまうほどの期間が過ぎたとしても、父母の墓を訪れて、昔の思い出をたどりながら、当時の生活を感じようとするのが人間の心なのです。

 このように考えると、私たちの心は果たしてどこにいることを願うのでしょうか。お金ではありません。自分の父母の家があるので、その家に行くために故郷へ行きたいのではありません。そこにいる愛する父母や兄弟、妻子に会いに行くのです。こう考えると、それは外的なことというより、内的な実証的次元のものであるということを、私たちは否定できません。

 では、この世を結び合わせることができ、一つの目的に帰結し得るものとは何でしょうか。それは愛というものです。その愛は、私たちが生きている現実の中で愛するような愛ではありません。本然の愛なのです。この愛は、どこから始まらなければなりませんか。最高の位置から始まらなければならないのです。神様は絶対者であり最高の方であられるがゆえに、その愛の出発も最高の位置からなされなければならず、その愛がとどまることのできる所も、最高の位置になければなりません。その愛は、天宙的な愛であることを皆さんは知らなければならないのです。

 私たちは、その愛をもって氏族と民族を超越することのできる、愛の化身とならなければなりません。その愛には、個人と氏族、氏族と民族、民族と国家、国家と世界、天宙、あるいは神様まで連結することができる氏族的内容があるのです。すなわちその愛は、家庭、氏族、民族、国家、世界、天宙、神様まで縦的な因縁を結ぶことのできる絶対的な起源であると同時に、横的に世界にまで広げて、世界人類を兄弟の因縁で結ぶことができ、歴史過程に現れたすべての否定的条件を永遠に否定できる、絶対的な愛でなければならないのです。

 したがって、愛を中心として縦的な面での個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を超越することができるかというのが問題になります。横的な面においても、社会と文化の風土に対する思潮の変化すべてを超越できるかということが問題となるのです。これが全部可能であるならば、その主義は最後の主義に違いありません。

 縦的にも横的にもそれが可能であり、万民共通の生命を備えた現時点において、心から万民の前に勝利できる愛を備えた主義だとするならば、そしてまた、勝利して万民をして同じ感情を誘発させることのできる主義だとするならば、その主義こそ、人間世界において未来の希望を確かなものとし、未来の願いの基盤を開拓できる一つの母胎となることができるのです。

 ではその愛は、何を中心としたものでしょうか。その愛は、個人を中心としたものではありません。その愛は、家庭だけを中心としたものではなく、氏族だけを中心としたものではなく、民族だけを中心としたものではありません。また、一つの国家だけを中心としたものではありません。愛は、そのすべてを超越するのです。世界を超越して天宙を中心としたものであり、天宙だけでなく神様を中心としたものです。また、神様だけを中心としたものではなく、神様の愛を中心としたものです。

 神様の愛を世界と換えることができるかというと、換えることはできないのです。また、神様の愛を神様自体と換えることができるかというと、それもまた、できないのです。その愛を求めるために神様自体も犠牲になってきたのです。神様御自身も、神様自体にあるその愛のために犠牲になってきたという事実を考えてみると、神様とも換えることのできない根本的な内容が、愛であるということなのです。

 この愛こそが、私たちの骨髄を通ることができ、私たちの血肉を管理する根本となるのではないかというのです。これは、今日堕落した人間の情緒的な生活を通して、如実に現れている事実です。

◆縦的な愛を横的に展開するには

 それでは、縦的な愛をどのように横的に展開するのでしょうか。縦的な愛を横的に展開するためには、自分自体を意識してはなりません。このような縦横の愛を帰結させるための一つの基盤となり得る基点が、この地球上に現れたとするならば、これは私たち人類の希望となるに違いありません。

 それによって、人類が縦的な完成を迎えることができるのであり、横的な完成を迎えることができるのです。それゆえ、完成の基準の前に関係するすべてを否定し、堂々と足を踏み出すことのできる内容があるのです。

 こういう観点から考えると、現実世界において皆さん自身がもっている理念があるとすれば、その理念はどれほど高いでしょうか。それは、皆さんの一生とともに終わるものです。その理念は、どっちみち皆さんが否定すべき圏内でもった理念であるがゆえに、皆さんの一生とともに終わるのです。それはまた、自分の子孫に相続してはならないのです。私の代に清算していかなければならない理念的要件ということです。これを清算するためには、自分自ら今日の生活観念を超越しなければならないのです。

 傾いた月は再び昇り、日陰があれば日向もあるという真理を私たちは知っています。このように高低が交差する時点があることを考えると、今日の世の中は、決して幸福なだけの世界ではないということが分かります。それゆえ、現在の世の中を否定するということは、幸福な世の中を追求するためであると推考できるのです。

 私たちは、神様の愛を観念的に感じるだけでなく、この愛を現実の生活舞台に適用し、誘発していかなければなりません。そのために皆さんが考慮すべきこととは何でしょうか。神様の無限の価値と現実の一つの個体が、どのようにして関係を結ぶかということが問題です。その世界を求めていくのが復帰の道なのですが、個性真理体を超越しては連結されないのです。

 大きい所へ行くためには、小さな所から出発しなければならないのです。それは、私の言葉から始まらなければなりません。私の話す言葉が、未来の世界と関係を結ぶべきであり、私の見て感じることも未来の世界と関係を結ばなければならないのです。

 そのためには、どのようにしなければならないのでしょうか。私一人では駄目なのです。これを皆さんは知らなければなりません。深い境地の修道の道を行くとき、一人で精誠を尽くすのは、神様の対象となるためなのです。しかし、神様のみ旨を展開していくときには、一人ではできないのです。いくら修道の世界ですべてに通じ、その権限が天上世界に知られた立場にあったとしても、また、彼が神様とは縦的に関係を結んだとしても、横的に関係する相対基盤をもっていなければ縦的な基準で終わってしまうのです。

 それゆえ、神様は主体的で縦的な中心の立場にいらっしゃったとしても、地上に生きている人間のところへ来ざるを得ないのです。この地上の存在物はすべて、自分自体だけでは幸福を感じることはできません。私たち人間も、現実の中だけでは幸福を感じることはできないのです。未来に連結される現実で、幸福を感じることができるのです。

 より価値的な未来世界に包括され、吸収され得る現在において、今日の生活の価値を感じなければならないのです。そうしてこそ、未来の世界観を立てることができます。

◆偉大なる名詞「真の父母」

 堕落した世の中にある私たち人間は、中心をもつことができませんでした。堕落した位置にある人間一人では、神様に直接対することができません。それゆえ、神様に直接対することができる一人をこの地に送るというのが再臨思想、メシヤ思想です。

 メシヤはこの地に来て、その使命を一人で成すのではありません。中心となるためには、四方を備えなければならないのです。四方を備えて平等な立場で授け受けることのできる力を備えてこそ、均衡が保たれるのです。そうしなければ、その力が傾けば、均衡が保たれません。少なく与える者は上がり、たくさん与える者は下がるので、平衡が保たれなければ、それは永遠に続かないのです。

 均等になるためには、まず平衡を保つにおいて、原点となる主体が必要です。また、この中心と平衡を保つことのできる対等な価値をもった対象がなければなりません。それで、その主体と対象とを同じ位置に連結することのできる線が引かれて、初めて水平線ができるのです。したがって、ここでは相対的要因が絶対必要だということを、私たちは知らなければなりません。

 では、なぜ神様は、男性の前に女性を必要なものとされ、女性の前に男性を必要なものとされたのでしょうか。これが問題だというのです。それは、一人を立てて自ら生活できるようにするためではなく、二人を立てて彼らが完全に一つの願いを中心として神様の愛をたずさえ、未来の世界に向かって共に生きていくようにするためです。その二人が授け受けるその生活は、極めて希望的な生活です。ここに未来の生活を引き込んで、現実の生活において互いに感知し、感じながら生きていくべきなのですが、そうできる存在とは何かというと、夫婦だというのです。

 そのような家庭で、互いに手を取り合い、幸福を謳歌し、未来を約束し、現実を否定して、未来の世界に確信をもち肯定して進む夫婦がいるならば、いかなる生活環境も彼らを支配することはできないでしょう。現実の生活がどんなに困難であっても、それが未来の世界の前に支障をもたらすのではなく、困難であれば困難であるほど、未来の世界に対するビジョンを与えてくれるのです。そうなれば、いかなる現実の困難も、彼らを拘束できないというのです。

 男性と女性が共に、そのような立場に立って未来を愛し、互いに尊重し合い、未来のためという心で生活し、ここに自ら未来の価値を同伴させて、尊重視することのできる夫婦の因縁を結んだとするならば、ここから幸福の基盤ができることでしょう。

 アダムにはエバ、エバにはアダムが必要であるため、神様は、彼らを理想相対として立てられたという事実を知らなければなりません。その相手となる存在は、現実的に主体と因縁を結ばずしては、未来と連結されないのです。イエス様と聖霊を、主体と対象の立場に立てたのも、この天宙的な事情に通じるための内的事情があったためです。

 こういう観点から考えると、否定すべき現実社会を切り開いていくためには、同志がいなければならず、先生がいなければなりません。より高く上がるためには、先生がいなければならず、同志がいなければなりません。現実において、絶対的な新しいものが歴史と民族の前に投入されるためには、必ず同志として結合し、未来の希望の世界に向かって燃える心をもって進まなければなりません。そこから新しい歴史が創造されていくという事実を否定できないように、天の法度も、このような過程を通してのみ立てられるということを皆さんは知らなければなりません。

 あなた方の家庭は、家庭のことだけで終わってはなりません。皆さんの前には、家庭を中心とした氏族編成という途方もなく大きな目標が置かれています。家庭が完全に一つなってこそ、氏族の前に立つことができるのです。一つとなれなければ、氏族を忌避する立場に立つことになるのです。

 今日まで私たち人間は、これが分からなかったのです。南なら南、東なら東ですべてが解決されるものと思って、今まで苦闘してきたのです。そのようにしても駄目なのです。個人ならば個人、家庭ならば家庭が内外の内容を備えて、み旨を共にする位置に立ってこそ、神様が同伴されるのであり、また、そうすることができる内容を備えてこそ、人類を主管することができるのです。

 どうしてそのようになるのでしょうか。後孫たちが家庭的基盤を中心として、男性と女性として現れるために、男性と女性の代表的な基準が、心情を中心として家庭の前に結束する価値的な内容がなければなりません。そのように結束し、万民が共通的に欽慕することができる対象となってこそ世界を支配することができるのです。それゆえに、「真の父母」という名詞は、偉大なる名詞なのです。もちろん、真理の内容も深みがありますが、「真の父母」という言葉は偉大なる名詞であるというのです。

 ここから未来への出発が保障され、未来に対する確信と価値を保障することができるのです。同様に、現実舞台において価値を保障することができる原点があるとすれば、それはその言葉から来るのです。

◆真の父母を中心とした家庭的革命の必要性

 ここで私たちは、どのようにしなければならないのでしょうか。一つとならなければならないのです。誰を中心として一つとならなければならないのでしょうか。自分を中心として一つとなってはなりません。自分の家庭を中心として、「真の父母」を引っ張ってきて一つとなろうとしても駄目です。「真の父母」の前に、引っ張られていかなければならないというのです。引っ張られていくときに、自分だけ引っ張られていくのではなく、自分の父母なら父母、夫ならば夫、妻ならば妻まで引っ張られていかなければなりません。それだけでなく、自分の家族まで引っ張られていかなければならず、家庭にあるすべての物質まで引っ張られていかなければならないのです。そうして、一つとならなければなりません。

 歴史時代を見るとき、旧約時代は物質を中心として歩み、新約時代は愛を中心として歩んできました。イエス様は愛について話しましたが、人間たちは愛がどのようなものなのかを知らなかったというのです。

 旧約時代は、蕩減のために祭物を捧げました。祭物がなければなりませんでした。このように、祭物を捧げる路程を経てこなければならないというのです。ここでいう祭物とは何かというと、犠牲物だというのです。それゆえに、旧約時代は人間の代わりに贖 罪の祭物として万物を捧げ、物質と共に動物を祭物として捧げたのです。このような時代が、旧約時代でした。

 その次に、イエス様は一段階高めて、神様の愛を紹介しました。旧約時代にはモーセが、愛の神様を紹介することができず、権能の神様、能力の神様、審判の神様だけを紹介しました。しかし、イエス様は、愛を紹介しました。愛の神様を紹介し、愛のイエス様を紹介しましたが、当時の人間たちは受け入れませんでした。

 このような過程を通して、これまで歩んできました。ここで、私たちが知らなければならないことは、父母を中心としなければならないということです。愛は、父母なくしては現れることができません。父母から人が生まれてこそ、愛を授け受けすることができるのです。このような相対基準を備えられずには愛を成すことができないのです。

 万物は、人間のために存在するのです。歴史全体が何に帰結されるかというと、家庭の基準に帰結されるのです。これが宇宙の根本です。父母なくしては子女が生まれることはできません。父母から生まれた子女が、父母を中心として万物を主管しなければなりません。

 皆さんが、み旨を成すために生きなければならないというとき、皆さん一人一人では歩んでいくことはできません。このような内容を、すべて糾合していかなければならないのです。このように糾合したものを、ぎゅっと押さえつければ一つの点となるのです。圧縮すれば一点になるというのです。この一点が二つに分けられれば、ここから衝突が生じるのです。

 立体的に見るとき、歴史は皆さんにとって何に該当するのかといえば、それは家庭に該当するのです。家庭は、歴史的な中心基盤です。

 未来の世界の前に希望を提示するためのすべての革命の目標は、国家や世界ではないというのです。歴史過程において、国家の革命観や、世界の革命観を提示した人はいましたが、家庭の新しい基盤を準備するために、家庭の革命観を提示した主体勢力はなかったというのです。

 それでは、先生は何をしようとしているのですか。家庭の革命がある前に氏族の革命があるはずがなく、氏族の革命がある前に民族の革命があるはずがなく、民族の革命がある前に国家の革命があるはずがなく、国家の革命がある前に世界の革命はあり得ないというのです。それゆえに、個体の完成と共に家庭的な革命をしようとしているのです。

 革命は、既存のものを捨てて破綻させなければ、成し遂げることができません。過去のものを除去しなくては新しいものを成すことはできません。したがって、自分を否定しなければならず、家庭を否定しなければならず、自分の物質を否定しなければなりません。そうしなくてはならないのです。

◆家庭は宇宙の根本

 イエス様は、自分の子供を愛する前に、神様を愛せよと語られました。自分よりも神様をもっと愛せよと語られたのです。それゆえに、イエス様は「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである」(マタイ二二・三七)と語られました。

 私たち人間は生命の根がないために、根を接ぎ木しなければなりません。浮き草のごとく、風が吹けばあちらこちらに流されていってもいいのですか。根がないというのです。このみ言は、このような環境の与件を絶対に必要とする堕落した世界にとっては、福音のみ言なのです。

 それでは、神様をどのように愛するのでしょうか。楽園の宮中に立てておきますか、そうでなければ歩き回らせますか。天国中心ではなく、生活中心へとすり替えることができる道を見つけるために、これまで身もだえしてきたのです。これまで人間世界に、生活中心へとすり替えることができる、その道がなかったので、そのような道がなければなりません。これはどのような話かというと、神様の愛を中心とした、真の愛の主体がいなければならないということです。

 一つの国を中心として見るとき、国の国王を父と見るならば、民は息子の立場であり、地は万物の立場です。同様に、世界を中心として見れば、万民は息子の立場であり、この地球全体は万物の立場であり、世界を中心として来られる主は、父の立場なのです。全天宙を中心として見るときには、天宙の中心である神様は父の立場であり、神様と連結される歴史的な人間は息子であり、すべての被造世界は万物なのです。

 これを縮小させた基本単位が家庭です。ゆえに、家庭における父のもの、息子のものを、すべて神様のものとして捧げなければならないのです。誰の息子、誰のものという区別はなく、すべてを神様のものとして捧げなければならないというのです。ある人は、「物質を除いて息子、娘だけ捧げましょう」と言う人がいます。あるいは、「自分は除いて息子と物質だけ捧げましょう」と言う人もいます。そのようにしては、全体復帰が成されないのです。

 一つの国を形成するためには、主権がなければならず、民がなければならず、国土がなくてはなりません。天の国も、やはり同様です。主権を代表したものが父母であり、民を代表したものが息子、娘であり、国土を代表したものが国です。このうちの一つでも省くことはできません。これは鉄則です。

 それでは、皆さんが国を代表していくべき基盤とは何でしょうか。国の祭壇とはどこでしょうか。家庭です。したがって、家庭において愛する夫婦を中心として、子女と万物が一つとならなければなりません。それが国のものであるならば、世界のものにもなるのです。私自身や子女や万物は、私のものではなく、国のものです。それは間違いありません。ゆえに、国が要求とするときには、いつでも引き渡すことができなければなりません。そうしなくては、国の前に忠の道理を果たすことができないのです。

 国を愛するのは、国から奪うためではなく、与えるためなのです。なぜ世界のために奉仕し、犠牲とならなければならないのでしょうか。「統一思想」は、自分の国を犠牲にして世界を救おうという思想です。これは結局、犠牲ではなく、世界とすり替えることになるのです。大きなものを得るためには、小さなものを犠牲にするのが正常なのです。より価値あるものとすり替える人が、知恵のある人です。それが、世界に行くための正当な道です。人間は、より大きなものを憧憬しようとするのであって、小さなものを憧憬しないのです。より大きなものを望むのであって、小さなものを望みはしないというのです。

 あるものを否定しなさいというのは、否定するだけで終わるのではなく、より大きなものとすり替えなさいということです。この現実の生活圏内で、そのようにすることができる実際的な内容を備えなければならないのに、このような内容を備えることができなかったために、今日人間たちは堕落した世の中の汚染された環境の中で、その生涯を終わるようになっているのです。このような実状を、私たちはよく見ているのです。

◆先生の思想――天宙主義

 すべてのものは、父母と、子供と、万物の立場です。今日、この世の中を生きていく中においても、父母のあとに息子が従ってきて、息子のあとに万物が従ってきているのです。より大きなものを中心として、息子と万物が父母を擁護していくのです。永遠の世界まで、そのようにしていかなければなりません。この堕落した現実から、死の世界にまでそのように導いていかなければならないというのです。父母は息子、娘を導いていかなければなりません。それゆえ、メシヤは息子、娘を救うために導いていかなければなりません。その次には、万物を導いていかなければなりません。万物は、そのために準備されたものではないですか。子供として生まれれば、既に父母となるように準備されているのです。それゆえに、父母の周りには、息子、娘が取り巻いて立っていなければなりません。父母の周りに、息子、娘が永遠に取り巻いて座っていたいと思うその心の基盤が、この地上に現れるようになれば、平和の王国は建設されるのです。

 皆さんは、先生を中心としてその位置を離れず、そばにいたいと思い、現在の自分たちの位置を変えずについていくことができる心をもたなければなりません。すべての所有物もまた一つとなる、それで終わってしまってはなりません。自然的な環境で、天のものとして動くことができ、天のものとして和することができる基盤とならなければならないのです。

 それでは、万民の祭物はどこに行ったのでしょうか。息子の祭物はどこに行き、父母の祭物はどこに行ったのでしょうか。これまでこれらの祭物が一箇所に集まって、父母の懐に抱かれることができる、そのような時が地上にあったでしょうか。人類に対して、「愛する息子、娘よ!
 お前たちの息子、娘は私の孫であり、その孫のものは私のものである」と言うことができる私自身となっているのでしょうか。これが問題なのです。

 家庭がある前に氏族があるはずがなく、氏族がある前に民族があるはずがなく、民族がある前に国家があるはずがなく、国家がある前に世界はあり得ないというのです。それで先生は、天宙主義を唱えるのです。

 天宙主義とは何でしょうか。家庭においていえば、私が生活している家庭に、天下をぎっしり埋め尽くしても余りあるほどの金の宝物があるとしても、そこに酔いしれて生きるのではなく、それを忘れ、常に神様の愛に酔いしれて生きる、そのような家庭です。息子のものは父母のものであり、父母のものは神様のものとして、そっくりそのまま連結させられなければなりません。

 私たちが行く原理の道は、神様の前に物質をまず立たせていく道です。神様は被造世界を創造される時、万物を最初に創造されました。万物が最初に現れ、その次に息子が現れたのです。ゆえに、父の前に進んでいこうとすれば、一番前に万物を立て、その次に息子を立てておいて行かなければなりません。そうしたのちに、父が私たちを呼ばれるのです。

 神様の救援摂理の目的は、万物を取り戻すことではなく、息子を取り戻すことです。息子さえ取り戻せれば、万物はそこに自然と交わるようになっているのです。また、父母さえ取り戻せれば、息子は生まれるようになっているのです。それゆえに、人類の父母を取り戻してくるのが復帰歴史です。皆さんはこれを知らなければなりません。

◆神様の前に感謝を捧げることができる人

 それでは、本当の意味で神様の前に感謝を捧げることができる人とは、どのような人でしょうか。
 自分一人で神様の命令を受けていこうとする人は、どんなにやっても駄目です。そのようにしては完成の位置に行けないのです。甲斐ある位置ではないのです。どんなに自由世界と天地が記憶する恩賜の位置に立ったとしても、そのようにしては駄目だというのです。まず自分の息子、娘と一つとならなければなりません。自分が所有しているすべての物質と一つとならなければならないのです。

 今後、家庭を中心として相続させ、家庭を中心として入籍させなければならない時代が来るのです。私たちにはまだ入籍する国がないので、入籍ができないのです。そうすることができる国がないというのです。このような運命に処している私たちは、ジプシーの群れであり、流浪の群れと同じ身の上であるということを、皆さんは知らなければなりません。

 それゆえに私たちは、どのようにしても一つの土台をつかみ、一つの主権を立てなければなりません。数多くの苦難の圏内で、一つの甲斐ある価値を中心として、世界の民族を復帰させることができる主体性をもった群れとならなければならないのです。

 皆さんは、今後入籍時期があるということを知らなければなりません。祝福を受けることは、入籍することではありません。これは、象徴的な入籍にしかならないのです。ゆえに、私たちは入籍することができる国を探し求めていかなければならないのです。その国は、どのような国でしょうか。
 主権は父母を身代わりし、民は息子を身代わりし、国土は物質を身代わりし、三位一体を成す国です。国家を形成するためには、主権がなければならず、民がなければならず、国土がなければなりません。宗教も同様です。

 今日、皆さんにおいては、私のものか、父のものかという、この関係をどのように展開していくのかが問題です。これが今日、私たちが生活しながら境界線にぶつかる、最も大きな問題です。

 一つの家庭は、一つの国を成すところにおける細胞と同じです。甲という人が、個人としてもつべき要件をすべてもっているのと同様に、一つの家庭は、一つの国家を成すことができる要件をすべて備えているのです。そのような目的をもって、先生は家庭を祝福してあげるのです。

 どのように感謝する生活をすべきなのか

 ここにおいて問題となるのは、皆さんが感謝する生活をするかどうかということです。しているならば、どのように感謝しているのでしょうか。子供の多い人を見れば、その人は苦労が多いというでしょうが、一面では子供がいない人が感じることのできない、そのような幸福を感じるということを知らなければなりません。子供を育ててみた人は、それが分かるはずです。子供を育ててみた人と、子供を育ててみることができなかった人を置いてみるとき、子供を育ててみた人は、子供がどんなに込み入り、騒々しかったとしても人生の生き甲斐を感じるのですが、子供のいない人は、そのようなことを感じることができないのです。

 子供たちによって人生の希望を感じるのです。その処している環境は複雑であるとしても、不幸なことではありません。そこには、あすへの希望が接ぎ木されているというのです。人がもてない息子、娘が多ければ多いほど、各分野で四方性を備え、新しい希望をもつことができるがゆえに、自ら進んで困難な環境を克服することができるというのです。

 このようなことを見るとき、感謝する生活をどのようにするのかということが問題となるのです。皆さんは、常に物質に対しています。ところで人々は、その物質をもって自分の息子、娘にたくさん食べさせようという考えをもっています。しかし、物質をもって国を生かそう、世界を食べさせて生かそうとしなければならないのです。物質に対したとき、その物質が少ないとしても、世界のために与えようと精誠を込める人と、その物質にしがみついて自分の息子、娘のために残してあげようと極端に惜しむ人がいるとすれば、神様が御覧になるとき、どのように思われるでしょうか。

 どんなに小さな物質であったとしても、神様のために精誠を込めたものであるならば、それで世界を掲げて入っていくことができるのです。皆さんは、これを知らなければなりません。もっているものが百ウォンしかない人が、その百ウォンに神様の愛を掲げて入っていくようになるときには、その百ウォンは全体を代表し、その人の人格を代表するということを知らなければなりません。

 一寸の土地であっても、これを「自分の財産である」と言うことはできません。すべては、神様からもらったものだというのです。神様からもらったので、再び戻さなければならないというのです。そのようにするとき、歴史は熟していくのです。そのように受け取ったので、そのように与える人とならなければなりません。そのような人々の世界とならなければ、この地は天国とはなり得ません。

 一日二十四時間の生活圏内で、私が見聞きしているすべてのことは、何のためでしょうか。神様のために見たり聞いたりしなければならないのです。同様に、感じることも、神様のために感じなければなりません。私たちは地上で生活していますが、天上世界の生活と連結させて生活しなければなりません。そのような生活ができない人は、天上世界を体得することができないのではないでしょうか。

◆感謝する生活をすべき私たち

 皆さんが一つの物をあげたりもらったりするときは、世界の物としてあげたりもらったりしなければなりません。このような事実を、皆さんの生活の中でどれだけ感じ、体得して生活しているのかというのです。

 皆さんは、誰のために与え、誰のために受け取るのでしょうか。神様のために与えなければならず、神様のために受け取らなければならないのです。神様のためにもらったので、神様のために与えなければならないのです。神様のために与えたので、自分のためにもらおうとしては駄目なのです。

 皆さんが神様を中心として誰かに一つの物をあげたならば、皆さんを愛される神様は皆さんに、それのみを与えたいと思うのでしょうか、でなければ、それよりももっと大きな物を与えたいと思い、心を痛める境地で死んでも、恥ずかしいと感じる心をもたれるのでしょうか。これが問題となるのです。父母は与えて誇るのではなくて、与えながらも、かえって恥ずかしいと思うのです。

 父母は、子供に与えても他の人と同じように着せることができず、もっと与えたくても与えることができないことを恥ずかしく、恨めしく思うというのです。息子が泣くのを見れば、自然に涙を流す父母の心情があるということを、私たちは感じなければならないのです。それは公的なものです。そのような心情をもった父母から生まれた息子は、立派な息子になるはずです。

 私が与えても恥ずかしがる心の姿勢、もらえば恥ずかしくおそれ多くて、どうしたらいいのか分からないという心の姿勢を常にもって生きる人が、感謝の生活をする人です。このような人を通して新しい歴史が展開するのであり、このような内容を通して天国が成し遂げられるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。

 それゆえに皆さんは、自分が処している位置で、涙を流しつつ感謝しなければなりません。あまりに足りない自分に望みもしなかった物を整えてくださった神様に対して、感謝しなければなりません。恥ずかしさを感じながらもらったので、与えながらも恥ずかしさを感じることができる心の姿勢をもつ人は、絶対に滅びることはありません。そのような人は、感謝する生活をせざるを得ないということを、皆さんは知らなければなりません。

◆私たちが立てるべき伝統――感謝の生活

 もし、アダムとエバが「取って食べてはならない」という神様のみ言を聞いたとき、このみ言を感謝して受け、あまりにも高く尊いお方が「恥ずかしい我々に、このようなみ言を下さるとは」と言って、おそれ多い心で頭を垂れ、自分たちは慎重に行動しようという心をもって生活していたとするならば、堕落はしなかったはずです。

 皆さんは、神様の愛を中心として愛を与えても恥ずかしいと思う心でお互いを尊重し、愛を与えても恥ずかしさを感じることのできる愛の主人公とならなければなりません。このような人たちが生活する家庭が、幸福でないはずがありません。これが今日、公的、私的な問題において、私的な問題を解決し、公的な基盤に連結させることができるたった一つの道であるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。

 このような時代に生きる人は、間違いなく幸福を享受するはずです。時が問題であり、その期間が問題であるだけであって、そのような人は、自分の生活圏内で神様のみ業を受け継いで生きる人なのです。これを知って、皆さん自身の責任が大きいということを考えなくてはなりません。

 歴史過程には立派な人々がたくさんいましたが、与えても足りないことを感じ、もらうときは有り難く受け取る人がいなかったのです。その格好はどうであっても、感謝してもらい、有り難くもらう人のみが神様を愛することができるということを皆さんは知らなければなりません。

 将来、私たちは何を誇るのでしょうか。神様が下さるものをいつでも感謝して受け取り、いつでも有り難くもらえることが私たちの誇りであり、また、有り難く与えられる心をもったということが私たちの誇りです。このような伝統を立てていく皆さんであるならば、その伝統は、世界の歴史とともに切れることがなく、永遠であることでしょう。

 そのように生活する人のみが、神様に感謝する生活をなす人です。私たちが世界に残ることができる道は、すべてのことに感謝する生活をする道だけであるということを、皆さんははっきりと知らなければなりません。

 生死の問題を中心として堕落したことが起源となり、このような曲折の道をつづってきたのですから、これを越えていくためには、現実を否定し、未来を肯定しなければなりません。現実において未来を肯定する心を受け継ぐためには、感謝する思いで、「すべてを与えられる」という心をもたなくてはなりません。このような心がなくてはならないというのです。これを知って実践していく人は、間違いなく神様の息子、娘となれるはずです。


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