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マルスム 一 御言に見る神との出会い 2 先生を研究せよ!より

御言に見る神との出会い 2 先生を研究せよ!  では、どのようにすれば、神様をはっきりと知ることができるのだろうか。それは、神様がはっきりとわかった人物を研究し、その教示に従い、実践する以外にない。  先生は次のように言われる。  (1)「先生はどんなに苦労が絶えなくとも、もっと苦労しよと思う。もっと誤解され、もっと非難されようとも、それに一言も文句を言わずすべて受け、たずさえて霊界へ行こう。そしてひき続いて伝統を立てて行こう。そうすれぱ、いずれは、我々のやっていること、我々の真理は勝利を治めるようになる。先生はわかっている。……先生は、霊界の組織、霊界のシステム、霊界の様子を熟知している。あなたたちには見えないけれど。あなたたちの目の前にほもう新しい天地が開かれようとしている。先生はその時間表をはっきりと知っている。必ず来る。新しい世界、新しい生活が必ず開かれる。」  (2)「消えていくような姿ではあったけれど、神に慰めを残していきたいという信念を持って行ったならば、「神は自分のためにいつもながらに導いてくれる神であったことを知った。だからこの道を行く。」  (3)「この道を先生は発見してしまったから、今までこういう戦いをしてきた。」  (4)「そういうことに間違いないから誰が反対しても、恐れずに生命がけで、天下すべて反対しても堂々と今までこの基盤を作ってきている。もしも不完全な道なら先生はもう風呂敷に持ち物を包んで帰っているよ。しかし他には行っても行くぺき道がないから、ずうっとこうやっているんだよ。先生は頭から言っても一番大きい帽子を二つ三つかぶったが大きいのでも合わなかったよ。それは何を意味するかというと、考えることにおいて復雑な事を考えている。だから、そういうことを考えるにも自分にマイナスになるような事を考えるか。本当に利益になることを探り探って考えた結果、この道に問違いないといって結論を出した。」(一九七二・四・二十三)  (5)「この世界のすべてを知り、そのすべてを越え得た先生の心は、もはや何ものによっても動かされることはない。巌の如く堅く立った先生である。」  (6)「先生は、成してあなたたちに教えているんだよ。」(一九七三・七・八)  (7)「先生が語ることぱは、たやすく語るようであるが、これを語るた

マルスム  神をはっきり知れ!の中から「神を信じていても、神は存在するんだけれど、実感的にはこないんだね。これをいかにして体恤するかということは、非常に問題なんだね。」

(5)「神が六千年の歴史を通して摂理してきたその基準は何であるか。それは真なる親の立場を人間に現わしてきた基準である。それが今まで摂理上において神が成さなけれぱならなかった使命である。それがなされた場合、その真なる父母に対して真の子女として立ち得る関係を結ぱなけれぱならない。これが果たせずして、真なる家庭、真なる氏族、国家、世界は望めない。だから、個人個人が、神に対して孝行し、奉仕し、そのなすこと、主張することにおいて、真の親に対しての関係をはっさりさせる立場に立たなけれぱ、神とは何ら関係ない。」  (6)「神を信じていても、神は存在するんだけれど、実感的にはこないんだね。これをいかにして体恤するかということは、非常に問題なんだね。」(一九七四・二・七)  (7) 堕落した人間にとっては、神がいるかいないかということさえわからない(本当の意味において)。神は実にいます。その神たるは我々のすべてに代えても否定できない真なる父母の立場に立っている。こういう認識をいかに体験し得るかということが、何よりも重大な問題である。」(一九六九・四・二十)  (8) 生きた神様が皆様と共に動いていることを生活圏内において体恤しなさい。それが必要である。それがあって疲れることがないのである。」(一九七一・三・十四)  (9) 実カは神が天下最高の実カ者じゃないの。そこにコードだけつけておけぱ、いつでも電流は流れる。」  (10)「心の中で、いかに神と近づくかがすべてである。」  (11)「要は神様がいるということをはっきり知ったならぱすべては解決する。」(一九七二・四・二十三)  (12)「『先生が先に道を開いて、先生がみんなとってしまったんだから、自分の行く道がない、それ以上になりたかったのに、もう行く道がない、しゃくにさわるし、そう思う人がいるかもしれない。しかし先生が願うのは、先生より以上、立派な人になれ、ということである。神に近寄るのを先生は願っている。」

マルスム 一 御言に見る神との出会い 1 神をはっきり知れ!の中から

1 神をはっきり知れ!  (1)「あなたは、神の存在を実感しているか? 毎日の生活の中で食べ物が恋しくなるような感じで神の存在を感じているか? そのように感じていないなら、あなたの信じている神は、頭の中にある漠然とした観念にしかすぎない。近くにいる兄弟姉妹を感ずるように、神の存在を感じていくようにならなけれぱならない。本当に神を理解するには、神を知り、神を感じなくてはならない。」  (2)「神の存在を本当に知っているということは、神の存在を信じているということではない。」  (3)「誰かが、あなたに、あなたの両親は実の両親ではないと説得したとしよう。それを数時間、数ヵ月、数年間説明してみても、やはり両額が実の両親でないとは確信できないだろう。それは、それほど深い愛情を両親に対して持っているからである。だから自分の両親を感じるように神の存在も感ずるようでなくてはならない。その感覚がないのなら、神を発見したとか言うことはできない。神の存在を知らないで神の子女だという資格があるだろうか。何よりも我々は神の息子、娘である。子供が両親を必要とするように、我々にも神が必要なのである。また、両親が子女を必要とするように、神も我々を必要としているのである。  もし神の心情に通じたら、この世界の果てまで手がとどく。そして全人類を飲み込んでしまう。しかしもし、今のままでいるならどうしようもない。何ら偉大なことほできない。神と一つとなった時、すべてのことが可能になる。これは真理である。」  (4)「神の存在を本当に知っている人々が、すべての問題の中で、最も難しい問題を解決してきた。……そのことを経験している人にとっては、多くの言葉は必要ない。だから誰かがその人のところへ来て、喉を突き刺したとしても問題ない。それによって考えを変えることはできない。神を実感することができれぱ、殉教も恐怖には思われなくなる。  もし何か恐れるものがあるとすれば、それは神である。我々が最も恐れるべきことは神を失うのではないかという可能性である。他のことは問題にならない。神が我々と共にいる間は、敵であるサタンの中心を通り抜けることもできる。そうした自信と決意がある者には、すべてが可能である。」 (^O^☆♪ 神様を正しく知る事ができるょうに祈ります。 神様、真の父母様に感謝し

恵みは、どれだけ悟ったかどうかである。同じ事でも、人によって受けとめ方は違う。 心情で感じ神様の恵みと祝福がありますよに祈ります。

(@nandaronande) 11/12/18 23:16 試練の後に恵みあり。 試練が大きく、大変な時は、次に来る恵みは、大きい! 試練を避ければ、恵みもない。 試練がある時は、チャンス! 恵みが来るから。感謝します。 (@nandaronande) 11/12/19 8:23 恵みは、どれだけ悟ったかどうかである。同じ事でも、人によって受けとめ方は違う。 心情で感じ神様の恵みと祝福がありますよに祈ります。 神様に感謝します。 ありがとうございます。

ヨブ記 1:1ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく神を恐れ悪に遠ざかった。 より

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熊田光治 ( @nandaronande ) 11/12/08 9:45 ヨブ記 1:1ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく神を恐れ悪に遠ざかった。 彼に男の子七人と女の子三人があり、 その家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭で、しもべも非常に多く、この人は東の人々のうちで最も大いなる者であった。 熊田光治 ( @nandaronande ) 11/12/08 9:50 ヨブ記 1:8, 9  "主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。 サタンは主に答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。" 熊田光治 ( @nandaronande ) 11/12/08 9:53 ヨブ記 1:11, 12 今あなたの手を伸べて彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。 主はサタンに言われた「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない」サタンは主の前から出て行った。 熊田光治 ( @nandaronande ) 11/12/08 9:56 ヨブ記 1:21, 22  "そして言った、「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。 すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。" bit.ly/vFtXbD

感謝します。

☆☆ みことば ☆☆ 〓 ふつふつと力が 〓 その時代は誰もがおなかを空かせていました。留学生の中にも苦学生が大勢いました。私は一カ月分の食券が手に入ると、全部持って行って彼らに渡して、「食べろ。思う存分食べろ」と言って、すべて使いました。自分ではお金の心配はしませんでした。どんな所でも働いて仕事をすれば、ご飯は食べることができたからです。お金を稼いで苦学生の学費を助けるのも私の楽しみでした。そうやって、人を助けたりご飯を食べさせたりすれば、体の奥からふつふつと力が沸いてきました。(『平和を愛する世界人として』81頁) ☆☆ みことば ☆☆ 〓 貧しい人々に 〓 ソウルにいた時と同様、東京でも行かない所がないくらいあらゆる土地を歩き回りました。友人が日光のような景勝地を見物に行くときも、私は一人残って東京市内の至る所を歩いて回ってみました。見た目はきらきらして華やかでも、東京の街もやはり貧者の天下でした。私は家から送金されたお金を皆、貧しい人々に分け与えました。(『平和を愛する世界人として』81頁)  栄光の王冠 (Crown of glory)   -2001年世界詩コンテスト最優秀賞受賞作品- 私が人を疑う時、私は苦痛を感じる  私が人を審判する時、私は耐えることができない 私が人を憎悪する時、私は存在の価値を失うしかし、もし私が信じれば私は間違いなくだまされる もし私は愛すれば私は反逆に遭う 今宵私の頭と身はく痛と悲しみに震えている私は間違っているのか そうだ 私が間違っているのだしかし、私がだまされても私はまた信じる 私が反逆に遭っても私はまた赦す 私は私を憎悪する者をことごとく愛するだろう おお 主よ! 愛するという痛みよ! 私の手を見てください この私の胸に主の御手を当ててみてください 私の胸は言うに言えない苦痛の中で破裂しそうです しかし、私は反逆した者を 私が愛する時 勝利を成就するでしょうもしあなたも私のように愛するなら 私はあなたに栄光の王冠をささげましょう 文鮮明(1935年-16歳) 栄光の王冠は、 オンライン訓読会よりコピーしました。 〈 http://kundoku.com/?pages-list 〉 神様と真の父母様に感謝します。